心に吹く隙間風その50
いじめが社会問題になっている。小学校や中学校でのいじめは極めて陰湿で、高等学校でさえ例に洩れずの状況だという。陰湿を超えた犯罪まがいのいじめによって、自ら命を落とす生徒がいる。当然、問題として大いに取り上げるべきであろう。
犯罪まがいのいじめには、加害者と被害者がいる。もちろん加害者がわかれば、それを野放しにしておく必要など一切ない。対処の仕方によっては、加害者だけではなく、学校の責任も追及されなければならない。犯人探しはしないなどと、馬鹿げたことを平気で言う学校関係者も、同時に追及されてしかるべきであろう。さらに被害届けを受理しないなどという警察もどうかしている。治安維持よりも、盗撮や情報漏洩に躍起になるから、世間は叩くのである。
情報も錯綜する。誤った情報によって、事件とは無関係な人たちまで、その当事者だと名指しされる始末である。怒りの矛先は留まるところを知らないようだが、そのやり方には少々違和感がある。
学校も悪い。教育委員会も悪い。加害者はもちろん悪い。家庭にも大いに問題がある。警察の愚鈍さも許せない。しかしもっと根源的なものがある。結局、行き着くところは「命の大切さ」ではないか。子どもの命を守ってやれなかった。そんな配慮のなさを棚上げすることはもっと許せない。
大人だって簡単に死んじゃうじゃないか。絆だって肝心なときはそっぽ向いちゃうじゃないか。助け合い支え合うよりもみんなスマホに夢中じゃないか。どこにも尊い命への配慮のかけらもない。そんなメッセージが子どもたちから聞こえてきそうな気がする。
独特の空気に飲み込まれて、誰かを何かを徹底的に叩いても、希望など何も見えてこない。命の尊さを説ける大人が本当の大人だとしたら、そこにこそ希望がある。命の大切さは自分と他者への配慮から始まる。錯綜するおびただしい情報などはもう御免である。
甲山羊二