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コラムⅡ
心に吹く隙間風
目次

心に吹く隙間風Ⅱその25

 今夏、日本は実に75回目の敗戦屈辱日を迎えた。終戦ではなく敗戦、記念ではなく屈辱、弄ばれる言葉には決して魂など宿らない。
 この節目に当たる年に、拙書『戦後を辿る旅』の出版に至ったことは、たとえ手前味噌であっても、この上なく嬉しく思う。付け加えるならば、そこに綴られている文脈と脈絡は、隅々にまで英霊や先人の言霊が宿っているといってよい。そうでなければ書くことなどできなかった。これだけははっきりしている。
 戦争より平和である方がいい。それは当たり前のことだ。では、なぜ戦争がいけないのだろうか。なぜ戦争がだめなのだろうか。それは概ね次の理由によるものと考えられる。
 人を殺めることなかれ。それは格言であって、しかも法であって、更には戒めとして厳然と存在する。しかしながら戦争の場合は異なる。そこでは殺すことを許容し、殺されることを暗黙の了解とする。その異常さを、本能として人が嫌悪するからではないだろうか。
 だからといって、戦わざるを得ない場合も多分に生じる。本能的に嫌悪するから、だからそれを理由に戦わないというのは、日本人であれば日本国に対する、或いは英霊や先人に対する、明らかな背徳と裏切りに他ならない。
 専守防衛という。馬鹿を言ってはいけない。越境に対しては毅然とする。黙って打ち落とす。怯むことはない。黙って底に沈める。それだけでいい。専守戦略。その為には憲法改正しか他に道はない。据えられ、与えられた平和にはほとんど意味などない。教条された、押し付けの平和など、もっての外だ。それらは、必ず自己卑下を湧き立たせ、最後には徹底した自虐へと貶める。思考は完全に停止し、後は堕落への道をひたすら突き進む。そうした状況を平安だと大いに勘違いし、挙句には厚く信奉までしてしまうのだから、それはあまりに始末が悪い。平和信者も、平安信者も、頭の悪さは実に等しいものがある。


甲山羊二
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