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コラムⅡ
心に吹く隙間風
目次
心に吹く隙間風Ⅱその30
今回は、「成人」と「成熟した人」について、その違いを少しばかり考えてみたいと思う。
成人とは、年齢的大人を指す。日本では成人式を迎える20歳ということになるだろう。或いは、選挙権を持つ18歳ともいえるかもしれない。いずれにしても、成人とは、年齢を基準としたものであることは間違いない。
一方で、成熟とは年齢よりむしろ、その人の内側の成長度合いを指す。よって、成熟した人の意味は年齢によるのではなく、人としての精神的成長に直結するものと捉えることができよう。成人に達した人が、成熟しているとは限らない。逆に、成人していない人でも、成熟と呼べる人はいる可能性がある。ただし、経験の蓄積がやはり異なる。なぜならば、経験は知識に優る人生観を作りあげるからである。従って、成熟した人とは、先ずは成人した人であり、加えて豊富な経験を重ねた、知恵ある人ということになる。これによって、「成人」と「成熟した人」が必ずしも一致しないことが分かるのではないだろうか。
昨今、成熟した人を探すのは実に困難である。これは嫌みでも、また皮肉でもない。思索の足りない人間、思惟のない人間、思慮に欠けた人間が余りにも多過ぎやしないか。忌憚なくいえば、実に幼稚な成人が増えたというである。それは人ではなく、「ヒト」に近い。
公共のマナーの欠如、悪口の書き込み、怒りを抑えられない等々、まるで幼児や児童がしでかすような事柄を、大人が平気な顔をしてやる。更に、罪の意識よりも、そこからの逃れを真っ先に考え、それを簡単に実行する。万物の霊長たる人間は、万物の劣短と化してしまったのだろうか。愚かしいことである。
人は人を見て生きる。人は人から習い、人に倣う。それも身近な人からだ。最も身近な人とは親である。父と母である。親が子供と変わらない。これからの日本は一体どうなってしまうのかと、これまさに「憂国」である。
「人の振り見て我が振り直せ」
これは素晴らしい格言である。しかし、人の振りを見るのも、我が振りを直すのも、思索であり、思惟であり、思慮が根底になければならない。成熟とは、深淵なものだ。それを見据えて、日々歩むのが「人」である。
甲山羊二
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