場所は去年と同じ藤井斎場前だった。昨夜は時間の都合で駅からタクシーを利用した。今朝はまだ少し余裕がある。僕は駅前の小さなロータリーから発車待ちの路線バスに乗り込んだ。
空いた車内には同じ目的地に向かうと思われる何人かの姿があった。僕は左の列のほぼ真ん中の席に座った。
ラッシュを過ぎた郊外の駅周辺は閑散としていた。携帯を片手に停留所の前を早足で通り過ぎる袴姿の女性。駅に向かってゆっくりと乳母車を押す若い母親。僕はそれらをただぼんやりと眺めていた。
ふと僕は西河のことを思った。去年の川原に続いて、今年は西河さえもいなくなった。けれどもその現実と自分自身の将来とを置き換える勇気はまだ僕にはなかった。
「末広公園行発車します」
運転手のアナウンスとともにエンジンの音が車内に響いた。ブザーが鳴り、後方で扉の閉まる音がした。バスはゆっくりと動き出した。
停車と発車を交互に繰り返しながらバスは進んだ。立ち並ぶ家々と幾つかの店舗。並行して走る自転車と歩道を歩く人々。風景は去年と何も変わっていなかった。バスはさらに進んだ。
しばらくすると、ある案内板が一定間隔で僕の目に留まるようになった。
『山崎英機 葬儀会場
藤井葬祭会館別館』
最初、僕はただの偶然だと思った。けれどもその太くて大きい達筆の『山崎英機』を何度も目にするうちに、それがあたかも自分自身のことであるかのような感覚へと陥り始めていた。
僕は『西河圭一』見つけようとした。必ずあるはずだと思った。しかし期待は完全に裏切られてしまった。
目を閉じても、『山崎英機』は僕から離れようとはしなかった。藤井三丁目はもうすぐのはずだった。僕は奇妙な感覚のままバスに揺られ続けた。
「次は藤井三丁目、藤井三丁目。藤井葬祭会館前でございます」
ようやくアナウンスが聞こえた。僕はすぐに停車ボタンを押した。そして前方へと向かった。間もなくバスは藤井三丁目に停車をした。
掲示板に表示された金額を運賃箱に入れ、誰よりも早くバスから降りた僕は、会館の正面玄関へと急いだ。そしてそこで西河圭一の名前を探した。
『西河圭一 葬祭会場』
間違いなかった。その瞬間、あの得体の知れない感覚は、ひとまず僕から消え去った。
西河を乗せた車を見送った後、僕は会館を後にした。けだるさが何となく体の中心にあるような気がした。今の自分を包んでいるひとつひとつからすぐにでも解放されたいと思った。
丁度、駅前方面に向かうバスが信号待ちをしていた。僕は早足で横断歩道を渡り、会館の斜め向かいにあるバスの停留所へと向かった。
バスは僕よりもほんの少し遅れて停留所に着いた。すぐに後方の扉が開き、「駅前経由・・・」のアナウンスが外に響いた。僕はそのままバスに乗り込んだ.
行きの場合と同様、車内は空いていた。僕は左の列の後方の座席に座った。そしてそのまま目を閉じて揺れに身を任せた。そのうち全ての音が少しずつ僕から遠ざかっていくような気がした。
僕は息苦しさで目を覚ました。そこは暗かった。そして身動き出来ないほど狭かった。僕はじっとしていた。
急に正面から光が入った。見ると妻の顔がそこにあった。妻はしばらく僕を見つめた後、語りかけるように何かを言った。そしてどこかへ消えた。
今度は娘の顔が見えた。何度もうなずきながら、やはり語りかけるように何かを言った。
娘に続いて息子の顔が現れた。見つめることもせず、うなずくこともせず、息子はそのまま消えた。同時に光も消えた。そこで記憶も消えた。
体が左右に揺れた。僕は再び目を覚ました。そこは明るかった。眩しいくらいだった。
大勢の人々が僕を見下ろしていた。皆泣いていた。妻がいた。娘がいた。息子もいた。久しぶりに見る川原の妻や、先程会ったばかりの西河の妻の姿もあった。
「ありがとうございます。・・・ございます」
男性のアナウンスが聞こえた。今度は体が前方に揺れた。光が消え、人々の足音が遠くで聞こえた。そのうちその足音も聞こえなくなった。
考えがまとまらなかった。僕は僕はどこに行くのだろう。人々はどこに消えたのだろう。
突然、あの太くて大きい達筆の文字が頭の中に浮かんだ。
『山崎英機 葬儀会場
藤井葬祭会館別館』
体を動かそうとしてもどうにもできなかった。別の力によって体は左右に揺らされ、また別の力によって元の位置に戻された。何度も同じことが繰り返された。
ほとんど観念しかけていたその時だった。耳元で声が聞こえた。
「お客さん、お客さん」
目を開けると、間近には男性の顔があった。
「お客さん、終点です」
僕はぼんやりしながら男性を見つめた。制帽に制服姿。
それは運転手に間違いなかった。
「ここは終点です」
静かだった。乗客は僕だけだった。「ここは」と僕は運転手に尋ねた。運転手は笑顔で答えた。
「ここは終点の市立斎場前です」
空いた車内には同じ目的地に向かうと思われる何人かの姿があった。僕は左の列のほぼ真ん中の席に座った。
ラッシュを過ぎた郊外の駅周辺は閑散としていた。携帯を片手に停留所の前を早足で通り過ぎる袴姿の女性。駅に向かってゆっくりと乳母車を押す若い母親。僕はそれらをただぼんやりと眺めていた。
ふと僕は西河のことを思った。去年の川原に続いて、今年は西河さえもいなくなった。けれどもその現実と自分自身の将来とを置き換える勇気はまだ僕にはなかった。
「末広公園行発車します」
運転手のアナウンスとともにエンジンの音が車内に響いた。ブザーが鳴り、後方で扉の閉まる音がした。バスはゆっくりと動き出した。
停車と発車を交互に繰り返しながらバスは進んだ。立ち並ぶ家々と幾つかの店舗。並行して走る自転車と歩道を歩く人々。風景は去年と何も変わっていなかった。バスはさらに進んだ。
しばらくすると、ある案内板が一定間隔で僕の目に留まるようになった。
『山崎英機 葬儀会場
藤井葬祭会館別館』
最初、僕はただの偶然だと思った。けれどもその太くて大きい達筆の『山崎英機』を何度も目にするうちに、それがあたかも自分自身のことであるかのような感覚へと陥り始めていた。
僕は『西河圭一』見つけようとした。必ずあるはずだと思った。しかし期待は完全に裏切られてしまった。
目を閉じても、『山崎英機』は僕から離れようとはしなかった。藤井三丁目はもうすぐのはずだった。僕は奇妙な感覚のままバスに揺られ続けた。
「次は藤井三丁目、藤井三丁目。藤井葬祭会館前でございます」
ようやくアナウンスが聞こえた。僕はすぐに停車ボタンを押した。そして前方へと向かった。間もなくバスは藤井三丁目に停車をした。
掲示板に表示された金額を運賃箱に入れ、誰よりも早くバスから降りた僕は、会館の正面玄関へと急いだ。そしてそこで西河圭一の名前を探した。
『西河圭一 葬祭会場』
間違いなかった。その瞬間、あの得体の知れない感覚は、ひとまず僕から消え去った。
西河を乗せた車を見送った後、僕は会館を後にした。けだるさが何となく体の中心にあるような気がした。今の自分を包んでいるひとつひとつからすぐにでも解放されたいと思った。
丁度、駅前方面に向かうバスが信号待ちをしていた。僕は早足で横断歩道を渡り、会館の斜め向かいにあるバスの停留所へと向かった。
バスは僕よりもほんの少し遅れて停留所に着いた。すぐに後方の扉が開き、「駅前経由・・・」のアナウンスが外に響いた。僕はそのままバスに乗り込んだ.
行きの場合と同様、車内は空いていた。僕は左の列の後方の座席に座った。そしてそのまま目を閉じて揺れに身を任せた。そのうち全ての音が少しずつ僕から遠ざかっていくような気がした。
僕は息苦しさで目を覚ました。そこは暗かった。そして身動き出来ないほど狭かった。僕はじっとしていた。
急に正面から光が入った。見ると妻の顔がそこにあった。妻はしばらく僕を見つめた後、語りかけるように何かを言った。そしてどこかへ消えた。
今度は娘の顔が見えた。何度もうなずきながら、やはり語りかけるように何かを言った。
娘に続いて息子の顔が現れた。見つめることもせず、うなずくこともせず、息子はそのまま消えた。同時に光も消えた。そこで記憶も消えた。
体が左右に揺れた。僕は再び目を覚ました。そこは明るかった。眩しいくらいだった。
大勢の人々が僕を見下ろしていた。皆泣いていた。妻がいた。娘がいた。息子もいた。久しぶりに見る川原の妻や、先程会ったばかりの西河の妻の姿もあった。
「ありがとうございます。・・・ございます」
男性のアナウンスが聞こえた。今度は体が前方に揺れた。光が消え、人々の足音が遠くで聞こえた。そのうちその足音も聞こえなくなった。
考えがまとまらなかった。僕は僕はどこに行くのだろう。人々はどこに消えたのだろう。
突然、あの太くて大きい達筆の文字が頭の中に浮かんだ。
『山崎英機 葬儀会場
藤井葬祭会館別館』
体を動かそうとしてもどうにもできなかった。別の力によって体は左右に揺らされ、また別の力によって元の位置に戻された。何度も同じことが繰り返された。
ほとんど観念しかけていたその時だった。耳元で声が聞こえた。
「お客さん、お客さん」
目を開けると、間近には男性の顔があった。
「お客さん、終点です」
僕はぼんやりしながら男性を見つめた。制帽に制服姿。
それは運転手に間違いなかった。
「ここは終点です」
静かだった。乗客は僕だけだった。「ここは」と僕は運転手に尋ねた。運転手は笑顔で答えた。
「ここは終点の市立斎場前です」