牧場小屋
Top
コラム
心に吹く隙間風
目次

 心に吹く隙間風その1

 防災グッズが飛ぶように売れているという。
ここ数年の間に起こった天災は、私たちに徹底したリスク管理を覚えさせたかのように見える。
だが一方では、火災保険や地震保険の加入率がさほど伸びていないとか、或いは各家庭における耐震対策がかなり遅れているとか、リスク管理も結構ちぐはぐのようである。
挙句の果てには、悪質リフォーム業者の餌食になるなど、天災よりもむしろ人災へのリスク管理のほうが、案外必要なのかもしれない。
防災グッズをしっかり買い占めたところで、咽喉もと過ぎれば熱さ忘れるで、折角買い占めた水も乾パンもいつの間にか期限が過ぎて、その多くはゴミの一部に変身してしまう。
結局天災は防ぎようがない。
仮に水や乾パンが役に立ったとしても、被災して自分だけが他の被災者の目の届かないところで、それらに貪りつくことはできない。
そこには必ず、得体の知れぬ嫉妬が渦巻き、それが静かな誹謗と中傷の引き金になって行くのである。
それはまるで飢えた犬の目の前で、ありったけのご馳走をいただくようなものである。
防災グッズも大いに結構であるが、天災にしろ人災にしろ、何時どのように起こるのか、それを私たちの日々の計画に綿密なかたちで入れ込むことは不可能なのである。
グッズを集めて安心する心は、或る意味の道楽心他ならない。私たちがすべきことは、結局心を鍛えぬくこと以外にないのである。
 私は、かつて阪神大震災で被災し、何もかも失ってしまった人が、その後不撓不屈の精神で立ち上がり、大地をしっかり踏みしめて生きている例を数多く見てきた。
確かに多くの人の支えがあった。
しかしそれ以上に、立ち上って生きていこうとする人たちへの誹謗や中傷、さらには尻の毛を抜くような非情な言動までが横行していたことも事実である。
立ち上がって生きようとすれば、まるでそれを追いかけるように、嫉妬と妬みが近づいて離れない。人災も然りである。或る事件でご主人を殺害された主婦の元には、支払われた生命保険金の寄付を当てにする宗教団体からの執拗な勧誘が後を絶たない。
身に覚えのない借金の返済を迫る催促や、隣近所からは、事件によって自宅売却時の価格が下がるということを口実に、その補填を迫る要求など、これでもかと言わんばかりの人間の醜さが露呈される始末である。
ご主人は自宅で殺害されたのではない。
自宅近所の公園で、教育とお節介を取り違えた親に育てられた、まさしく哀れな少年に殺害されてしまったのである。
 私たちは天災であろうが人災であろうが、たとえそれに遭遇したとしても、生かされたのであれば、当然生きていかなければならない。
いつ磨耗するかもしれない心で精一杯感じながら生きて行くほかないのである。
私たちはむしろ体よりも心で生きている。その意味では、心は体以上に繊細なのかもしれない。
本当にリスク管理が必要なのは心なのであろう。
甲山羊二
2章を読む→