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コラム
心に吹く隙間風
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 心に吹く隙間風その2

 私はどちらかと言うと「何々主義」という言葉をあまり好むほうではない。
言葉自体はそれはそれなりに聞こえは良い。
しかし、そのような主義を前面に掲げる組織において、その主義たるものが貫かれているとは到底思えないし、その形跡を見つけることすら大変苦労を必要とする。
特にそれが宗教に関わるものである場合、そこには何かしら胡散臭さを感じてしまう。
 例えば、私の周囲のクリスチャンなどは、現実逃避を生きがいにしつつ、その一方ではキリスト教主義を掲げる職場で経済活動を行っている場合が多い。
そもそも彼らには、時事問題などについて意見を交換するとか、或いは議論するとか、そのような発想は無い。
彼らにとってその主義を掲げる職場は、現実を逃避する為の絶好の場であり、明確なミッションマインドを持つかのように見せる対外的宣伝の場なのである。
すべてが現実逃避に包まれているわけだから、聖書にあることばについても、全くもって情緒的である。
つまりは、脈絡という観点に大いに欠けるというわけである。
だから、聖書の知識に乏しいのは言うまでも無い。
所詮教会というムラに屯する構成員に過ぎない。
現実との関わりの中で信仰を守るという、至極当然なことができていないのである。
 また、彼らは伝道とか宣教とかという言葉を度々口にする。
しかしどうであろう。現実の日本から逃避するところに、一体どんな伝道や宣教が行われるというのだろう。
さらに滑稽なことは、現実逃避している姿を露呈することに、ある満足と快楽すら覚え、その矛盾こそを真の信仰であると勘違いしていることである。
そこで行われる伝道や宣教はまさに悲惨なものである。
人の心の内を土足で入り込むようなものである。
世の中の現実どころか人の現実にも目を反らす、冷ややかなるものが彼らの言う伝道であり宣教なのである。
結局のところ、キリスト教主義という言葉自体は、対外的な看板に過ぎない。
人はそこに純真と純潔を求めるが、結果実情を通して失望を経験することになる。
或る時私は彼らにこんな質問をしてみたことがある。
「人の現実に目を反らしながら、なぜ人の心の痛みの部分に触れることが出来るのか」と。
返ってきた答えに驚愕してしまった。
「それはあなたが人を見てしまっているからだよ」そのとおり、私たちは常に人を見ているのである。
しかし、ただ見ているのではない。
人の言葉や行動を通してその背景にある思想を観ているのである。
あなたを見て、あなたたらしめる神の存在を観るのである。
クリスチャンを見て、クリスチャンたらしめているところを観るのである。
これがクリスチャンに対する最初の視点なのである。
私の想像する限り、どうやらクリスチャンにも八百万の神が存在するらしい。
甲山羊二
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