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コラム
心に吹く隙間風
目次
心に吹く隙間風その6
伊藤長崎市長襲撃事件は、日本を震撼させ、日本人を眠りから覚まさせたという意味では注目すべき事件である。
今般の事件は言うまでもなく、ただの輩が暴発した結果としての事件である。
このような屑の輩に屈した本人は、さぞかし無念であったに違いない。
ご冥福を祈るばかりである。
また今般の事件は、本島襲撃事件や加藤議員宅放火事件とは、根本的に異なる質の事件である。
従って、それらをすべて同類項として捉え議論することにはかなりの抵抗を覚える。
確かに多くの日本人の目が覚まされたものの、その目が未だ虚ろであることに、悲観的にならざるを得ない。
つまりは、その後の視点は全くもつて極めて日本人的であると言わざるを得ないのである。
暴力反対と口を揃えて言う。
しかし現実には、暴力が渦巻く中で私たちの生活が成り立っているという事実について議論しようとはしない。
何時起こるか知れない無差別殺人や通り魔殺人などはその典型的な例である。
加害者が狂っていればいるほど、被害者やその家族は救われない。
場合によっては、私たちは悪に対して毅然と暴力によって立ち向かわなければならないときがある。
己の彼女が他の男に強姦されるのを黙って見ている馬鹿は真の馬鹿である。
とにもかくにもこの際だから、すべての暴力は反対だという議論は、何ごとも「かやく飯」的に物事を処理しようとする極めて日本人らしいものの考え方に過ぎない。
国賊に対する審判を暴力というのなら、一体屑の輩による暴力を何と表現するのだろうか。
これら二つは当然一線を画して議論すべきことではないのか。
国賊に対する審判は暴力ではなく整理である。
整理整頓の整理であることをここで明言しておきたい。
ぼやけた視点での稚拙な議論は、自らの国家を滅亡へと導く温床になるのである。
甲山羊二
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