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エッセイ
ああ言えばこう言え!
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 ああ言えばこう言え!その8

 乗り物の優先座席が市民権を獲得してから随分経つ。
初めの頃は、何やら違和感があったものだが、最近ではすっかり日常化され、座席の色も、以前のかび臭い芋虫色から、明るいオレンジ色へと変化が見られる。
学生時代、旅行先で乗車したバスで、私は生まれて初めてお年寄りから席を譲っていただいた。
リュックを背負い、長髪に酷い無精髭、経済的状況から食う物も制限しての一人旅、よほど全身から疲労があらわれていたのであろう。
1人のおばあさんが私を見るなり、「あんちゃん!ここへ腰掛なされ!遠慮はいらん!さあ!」と、まるで乱暴でもしそうな勢いで、私を座席に沈めてしまった。
勢いに圧倒され、とりあえず礼を述べて座ったものの、極度の疲労からか、とたんに寝入ってしまい、その後の記憶は無い。
もちろんおばあさんの消息も不明である。
今から考えれば、これを逆譲りというのであろう。
ところで、つい先日のこと、私は電車のなかであるおじいさんに席を譲った。
この譲るタイミングとやらがなかなか難しい。
どなたか、このタイミングに関する指南本を出版して欲しいものである。
たちまちベストセラーになるに違いない。
さて、そのおじいさんだが、わたしの「どうぞ」の一言にピクリとされ、大いに恐縮された。
座席に座られた後も、私を見上げ両手をすり合わせて拝まれる始末である。
私は阿弥陀如来でも弥勒菩薩でもない。
数珠まで出されかねない状況に、私はそっと隣の車両に乗り移る結果となった。
座席を譲るということは、なかなかスリリングでハイリスクな行為なのである。
善意には、愛と勇気と間合いと勢いが必要なのである。

甲山羊二
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