MyBlog Ver1.40



甲山羊二オフィシャルブログ
Writing by 甲山羊二
 オフィシャルページにある奥の部屋で、コラムでもなく、エッセイでもなく、もちろん小説でもない、ただのつぶやきをほんの少しだけ形にしようとする。
 僕がつぶやくことで僕自身が導かれ癒され納得する。
 それもいい。
 さすが典型的B型人間甲山羊二だ。
 だからいい。やはりいい。


■公式ホームページ


似非カウンセラー
カウンセリング…
その言葉に万能さを覚える御方々には一度脳神経外科へ直行することをお奨めする
画像にはこの世のものとは思えないくらいの華美なお花畑が映っているに違いない

兎にも角にもだ…
カウンセリングとは単に傾聴でしかない
そこには万能さなど欠片も存在しない…

だがだがしかし…
実はその傾聴とやらが肝心要の作為であって自らの体験と高度な技術を要求される

傾聴とはただひたすら聞くことではない…
自らの内側に緻密な創造をすることである

また傾聴を通して共感することでもない…
時空において認識を共有をすることである


普遍的な学問と技術を自らの体験を通してのクライエントに合ったオリジナルな傾聴

カウンセリングは学問も体験も持ち合わせない甘野郎が関われるような領域ではない

例えばの話だ…
学校などで若い女教師がカウンセラーと称して正々堂々と偽カウンセリングを行う
挨拶ひとつできない似非教師かつ似非カウンセラーの偽善などまるで悲劇であろう

加えて言おう…
自ら命を絶つことを決めた人間に対してカウンセリングは何ら効果も効力もない…

更に加えよう…
自殺の決心を遂行して死に至った経験者がカウンセラーになることなとはできない

非体験者が体験者の顔をするのは結局似非でしかないのである
2022-06-20 09:14:09[526]


いじめ短考察
あだ名を止めよう…
学校という場はなかなか愉快で奇妙で奇怪なことを思いつくと感心することしきりだ

いずれ近い将来にはお互いを番号で呼び合おうなどということになるかもしれない
人間がいるところには大人であれ子供であれ必ずやいじめというものは存在する…

いじめはなくならない
いずれにせよ日本人はいじめが大好きでたまらんという性質を元来から持っている…
学校もいじめ撲滅などと建前と虚言の前に先生同士のいじめをなくすべきであろう
学閥や派閥に係るいじめはもちろんのこと正規から非正規へのいじめも現にある…

あだ名で呼び合おう
悪質なあだ名は遠慮なく撲滅すればよい
卑劣ないじめは犯罪として処理すればよい

「相手が誰であれ正々堂々とものを言わなければならないのです」
そんな妄言を吐く先生ほど犯人の親の前では正々堂々と萎縮する
先生は建前が大好物だ
先生にお任せする前に正々堂々とそこから逃げてしまいましょう
自分の精神は自分で守らなければならない

いじめは確かに悪い…
だがしかし面倒くさがって十把一括することの方が実に嫌らしい
2022-06-06 12:22:48[525]


中村元博士
中村元博士といえば
名著『東洋人の思惟方法』を速挙げる…

言語と思索の関係…
当然で必然の関係を徹底して掘り下げる
名著が今もなお名著たる理由はそこに商業主義的なきな臭さを感じないからだろう
あらゆる論文を適当に寄せ集めて口当たりの良い部分をとりあえずまぶしておく…
そこには著者の見解は微塵も記されない
この手合いを論集として熱心に売り込むというのは社会にとって最大の悲劇である
悲劇を悲劇と感じずにその受け売りを自説のごとくどこかの誰か様が喋りまくる…
悲劇が喜劇となって藻屑の如く消えていく

博士の見解は明快だ
そこでの結論は実はたったひとつである

人間は結局は変わりようがないということ

そうした人間が構築する社会もまた外面は変わっても内面は何ら変わることはない

名著には普遍的な事柄を多く含んでいる

学生時代に一度だけ博士の講演を拝聴した

ボンクラだった当時の僕にとってはかなりの難解な内容だった

名著のみならず博士の名訳も紹介する…

『ミリンダ王の問い』

中村元博士の思惟方法は圧巻でしかない
2022-05-16 00:29:07[524]


ドフトエフスキーを読む
ドフトエフスキーの作品を久々に読んだ

『カラマーゾフの兄弟』揃世界文学全集

随分以前に古本屋で購入した函本である…

あなたカラマーゾフも読んだことなかったの
答えはイエスである
因みにだが『罪と罰』は既に読んでいる
そんなことは何の自慢にもならないですわよ
応えは然りである…

ロシア文学は嫌ではない
但し相当に根気が必要である…
思想と信条と哲学と宗教
その混在は日本文学には殆ど見られない

カラマーゾフもまた例に漏れず難解である

大体がカラマーゾフ家が難解過ぎる家柄だ

だがしかしである…
この作品には血が実に明確に読み取れる
この場合の血とは単に血液を指さない
ここでの血とは継承される必然性をいう
もっといえば育つ環境の恐ろしさである
育ちは人間に真っ向勝負を挑んでくる
そしてどんな場合も常に勝利の側に立つ
血は実に恐ろしい

カラマーゾフに限らず周囲を見渡せば血の論理は極めて明確だ
賢人は愚人から成るものではない
賢人は賢人によって成る…
愚人もまた愚人から成る
更には賢人の元には賢人が集い、愚人の元には愚人共が群れる
類が類を呼ぶのはシステムである

つい最近のことだが
平然と大人に嘘をつく子供を見たが、これもまた血の結晶だろう
最近増殖凄まじい…
マナーの悪い爺婆や中年や若者もまた血のなれの果てだといえる

『カラマーゾフの兄弟』という作品はある種の教示書ともいえる
だとすれば血の結晶やなれの果てもそれなりの価値は認められる
もちろん価値を価値として正当に評価できる賢人ならばの話だが
2022-05-02 07:59:17[523]


チベット記
河口慧海のチベット記を読んだ
時代は明治である
まさに孤独の紀行である
その志はひとつ…
チベット仏教を学ぶこと
それ唯一である

チベット記といえば多田等観も外せない
チベット研究の功績についてはかり多大だ
加えて能海寛もここは忘れてはならない
その遺稿集は優れて貴重な資料でもある

閉ざされた国チベット
河口慧海も多田等観も能海寛も時は秘密裡の潜入でしかなかった

ところで因みに僕はといえば
実は学生時代にチベット語に一度挑戦したことがある
理由は書かない
そして玉砕
見事に挫折した
見事にある
理由は書けない

チベットに特に思い入れがある訳ではない

しかし仏教を学ぶ上でチベットは欠かせない
日本仏教を学ぶことは日本人について知る

手段であってそれ以上でもそれ以下でもない
そこはあくまでも日本の仏教でしかない
急いで付け加えるなら…
日本にあるキリスト教も同じく日本的なキリスト教でしかないのだ
そこははっきりしている

余計かもしれないけれど
先人の志は生きているか
日本仏教はそれを生かしているか
残念ながら是と言い難い
これもはっきりしている
2022-04-18 08:59:45[522]


国芳の世界
京都に国芳を観てきた
雨の京都…
そこに国芳
神様はなかなか粋な計らいをされるものだ

国芳の世界は全くもって独特のものだ…
一体全体何が独特か
彼は人間を決して美化しない
目に映る人間の姿を仮のものとして捉え、
見ることのない心の有り様を真のものとして顕わに曝していく
彼の作品を単純に「怖さ」の対象として観る見方は正しいとはいえないのではないか

心の不様さを作品を通して垣間見せられる

更にいうなら自らの心を見せつけられる…
それを「怖いもの」と表現する
怖いのは人間の心…
怖いのは自分の心…
そこに美化は不要だ

国芳が時代を超えて評価され続ける意味
時代がどうであれ、人間は変わらない
人間の心も延々に変わらない
意味はそこにある
2022-04-04 00:44:48[521]


神話の世界
古事記
そして風土記

日本の神々は夫々性格に富んでいてなかなか理解するのが難しい
八百万の神とのお付き合いは大変である

外国の神話には相応の親近感を持つ一方で

日本の神話を心底毛嫌いする人がいるのは実に不思議なことだ…
古事記や風土記の神について語ろうものならそれはそれは生半可では済まされない
加えてそういう御方達は日本国歌や国旗にも酷いアレルギーをお持ちの様子である
要するにきっと日本がお嫌いなのだろう
そのくせオリンピック等の世界規模の祭典については相当の日本国贔屓でおられる
神話はあくまでも神話
そこにある創造的深淵を否定してするようでは生活センスなども皆無だとみてよい

現実ばかりに目をやる
そしてそこから乖離した世界を徹底的に否定して攻撃まで加える
おまけに自国の国家や国旗を平気で罵る
何かあれば戦争だの平和だのと叫び回る

神話があり、国歌があり、国旗がある…
国家の体裁とはそもそもそういうものだ
人間に名前があり、容貌があり、心情があるのと何ら変わらない

時間的な余裕のせいだろうか
それとも精神的なゆとりのせいか…
最近は八百万の神とのお付き合いに精を出す毎日である
とはいってもこれは信仰心とは全く別だ

日本人として今一度神話の神と対話する
なかなか大変だが億劫なことではない…
対話を面白くするのもまた自分次第である
2022-03-21 07:29:44[520]