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コラム
心に吹く隙間風
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心に吹く隙間風その16

 昨今、刑事事件における精神鑑定とやらが大流行している。
容疑者の責任能力を鑑定することを全面的に否定するつもりはない。それが制度としてある以上、必要あれば利用することは、まさに正論である。しかし、被害者の心情はそうはいかない。
 もちろん、これは事件の概要にもよる。例えば、東京秋葉原での無差別な殺傷事件について、その容疑者をわざわざ精神鑑定する必要があるかどうか。「むしゃくしゃ」していたという精神状態をわざわざ鑑定する必要があるかどうか。
その「むしゃくしゃ」は十分な自覚症状であり、その自覚症状も原因は現実の事象として明確であり、もっと言えば、大体において「むしゃくしゃ」は、感情として誰でも起こり得るものである。
それをコントロールできない稚拙さを、何故わざわざ鑑定する必要があるのか、正直理解に苦しむ。幼児性を鑑定する程、世の中は暇ではない。
 私など、毎日「むしゃくしゃ」している。満員電車で「むしゃくしゃ」して、職場で「むしゃくしゃ」して、ペットに小便をかけられて「むしゃくしゃ」している。だからと言って、「人を殺してしまおう」などとは思わない。
ちょっとした理性と想像力があれば、人を殺すという行為が具体的にどういう行為なのかについて、容易に見当が付く。それによって、何がどうなるのかについて、時間を掛けて考える必要もない。1+1=2よりも簡単である。
 本当はいけないことであると、前置きをして、自分の「むしゃくしゃ」を他人に向ける前に、それを先ず自分に向けるがよい。他人を傷つける前に、先ず自分を傷つけたらどうだろう。
自分を傷つける怖さと痛さを想像できるくせに、容易に他人を傷つけ、挙句の果てに殺してしまうという人間に、精神鑑定など不要である。
私はそう思う。

甲山羊二
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