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コラム
心に吹く隙間風
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心に吹く隙間風その25

 相次ぐ高校生による殺傷事件は、その相手が同じ高校生であったという点からも、その驚きは尋常ではない。
それも計画的犯行を伺わせる事件だけに、ある失望すら感じてしまう。生命の尊厳はどこにいってしまったのか、なぜ妄想の現実化が簡単に引き起こされてしまうのか、容疑者の想像力の欠如については相当甚だしいものがある。
もちろん、そのような欠如は社会全体に蔓延化している。
電車のマナーひとつとっても、目に余るのは高校生よりもむしろ中高年である。政治だ、或いは教育だと散々批判を重ねても、批判する側がこの有様なのだから、それは高校生が学ぶべき対象とは大きくかけ離れている。
さらに最悪のケースもある。学校で飼われていた兎が死んだ。しばらくして、悲しむ児童の前に先生がポリ袋を持って表われた。
先生は児童にコメントひとつすることなく、その死骸をポリ袋に放り投げ、普通ゴミと一緒に出してしまった。こんな先生に指導を受けざるを得ない児童の不幸を思うと切ない気持ちになる。
他者に対する想像力の欠如の蔓延は、電車のマナーだけにとどまらず、最悪の指導者を生み出し、死を通して生命を知るという実体験をも消し去ってしまう。
ここで政治家に期待するのもどうかと思う。責任を口実にとっとと自殺してしまうような、自らの命を粗末にする連中から学ぶものは何もない。宗教も然りである。お布施集めや信者集めに奔走する多くの宗教組織に期待などできない。時に手の平を返したように信者を吊るし上げる連中に語る資格など全くない。
死は想像の世界である。だから、私たちは目の前にある死を通して、生命の尊厳を学ぶのである。
そして他者への愛情を獲得していくのである。そのような獲得を積み重ねてこそ、また他者からの愛情を真に受け止めることができるのである。

甲山羊二
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