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コラムⅡ
心に吹く隙間風
目次
心に吹く隙間風Ⅱその7
先日、鹿児島の知覧を訪れた。知覧はかつて陸軍の特攻基地があった場所だ。大東亜戦争の末期、多くの若者がこの場所から沖縄へ向けて飛び立ち、米軍の軍艦目がけて体当たりを敢行した。そして同時にまた多くの若者がそれによって散華していった。知覧にある特攻記念会館に展示されている遺書や書簡などのひとつひとつは、まさしく見る者の涙を誘い、平和とは何か、生きるとは、そして死とは何かを考えさせる。平和とは必ずそこのあるものではない。そして常に連続するものでもない。人間の生と死も同じだ。僕たちは必ず尽きる。ただし尽き方は選択できるものではない。だから死は常に恐怖の対象となる。
特攻隊として飛び立った多くの若者は、自らの尽き方を自らが選択して、そして散華していった。そこにはヒューマニズムもセンチメンタリズムも何もない。ただひたすら国家を思い旅立っていった。平和という言葉やそこにある幻想に埋没している僕たちから見れば、それはまさしく狂信的だと言わざるをえない。
特攻で散華した若者と現在の若者とを安易に比較はできない。時代を違えての比較ほどあてにならないものはない。ただ、僕は今回の知覧でどうしても思わざるを得なかったことがひとつだけある。少なくとも特攻隊にとってバーチャルな世界などどこにもなかった。生きることも死ぬことも戦うことも、全てが現実そのものだった。当然のことだが、スマホとゲームに熱中し、バーチャルと現実を取り違えるような、そんな稚拙なことはなかった。絆という言葉に踊らされることもなかった。皆が心の深い部分で平和と生と死について、もがきながら考えていた。考えることを止めた時、人間は本当に朽ちる。若者だけでない。僕は、僕たちはいったい現実のなかにいて何を考えて日々生きているのだろうか。
そうして僕はその場にしばらく立ち尽くしていた。
甲山羊二
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